Wednesday, September 26, 2018

現地調査@ミャンマー

B4の西原です.
先日行われたミャンマーで現地調査に同行したので,その様子を紹介します.

今回の調査の目的は,ヤンゴン工科大学(YTU)の学生およびミャンマー運輸・通信省 水資源・河川系開発局 (DWIR)の職員とともに,シッタン川河口部の住民への生活実態の聞き取り調査,ドローンでの空中からの画像の撮影,およびヤンゴン市内の貧困地区での生活実態のアンケート調査を行うことでした.
雨季にもかかわらず天候に恵まれて調査を遂行できたのは幸運でした.

・シッタン川観測のようす
8時にバゴー出発.途中で車からボートに乗り換え,さらにボートを降りてから30分ほど田んぼのなかを歩いて,合計3時間半かけてシッタン川の河口部に到着.
今日の主な調査の目的は,シッタン川河口部で見られる「ボア」とよばれる遡上現象の観測である.今日は大潮にあたり,また観測予定時刻も15時とちょうど良い時間に当たるため,天候が良好であったのを含めて絶好の観測日和となった.
狭いボートに乗ってシッタン川河口を目指す
ぬかるみを避けながら道なき道を進む

川崎グループは集落のヒアリングを行う予定だったが,今回たどり着いた河口部は集落がなかったので断念してドローンで上空から集落の様子を撮影することを試みた.
現地の子どもたちも興味津々
午後3時過ぎ,不気味な音とともにボアが発生してて一気に水位が上昇.10分も立たないうちに景色が一変した.
シッタン川のボア

翌日は,海岸研が設置した水圧計を回収した後に別の場所でボアの観測を行った.
学校の正門だった場所.写真右側に人の住む土地はない

河口部の住民の聞き取り調査

・バゴー現地調査の感想
ボアによって沿岸浸食がとてつもない速さで進むため,住民は農地の放棄と移転を余儀なくされる.先生の聞き込みによると12日に通った地域の最前線の集落は,1か月前に移転してきたものだそう.この沿岸浸食はどのくらいの速さで進むのか,またどこまで浸食が進むのかは今回同行した海岸研の赤松さんの研究にお任せしたい.
ところでボアの凄まじさを見たことによる感動とは別に,私は最前線の集落に住む子どもたちの純粋さであったり明るさにも心を動かされた.そこから,定住し経済的に多少豊かになった集団の方が水災害への脆弱性やそこから導かれる幸福度の下がり方が大きいのではないかという仮説を立てた.もちろん貧困の定義は難しく,まして幸福度は個人によって異なるものであるが,少なくとも水災害への脆弱性という観点からは,何も見ずに聞き伝えの記憶だけで低収入=貧困という定式だけでくくる行為は神のみぞ知る真実には近づかないのではないかと思った.これも実際に地元の住民と顔を合わせたから分かったことであり,改めて現地に赴くことの重要性を感じることができた.

・ヤンゴン貧困地帯の調査の感想
ヤンゴンでは川沿いの不法住居群で聞き取り調査を行った.そこでは洪水が日常になっている世界があり,住民もさほど気にしていない様子がうかがえた.それを見て,先述のシッタン川河口部の住民と同じように少し経済的に豊かになり外部との接触が行われたり洪水に対する経済損失が大きくなったりしたときに,「人生を選択できない貧困」に気づかされるのではないかという思いを強くし,否応なく外部世界を取り込んでいく現代社会の負の側面に改めて気づかされ,河川のことを研究する一学生として何らかの形で貢献したいという思いを強くした.
ヤンゴンの貧困地区.道路にはゴミが散乱し衛生的によくない場所で少年が危険労働に勤しんでいる.

また,アンケート調査に初めて同行してみて,人間の生のデータをとることの困難さを知ることができたのも大きな収穫だったと思う.情報網が広がり世界中どこからでもデータを取得できる現在の社会においては,ややもすると膨大なデータ量に溺れてしまいがちでデータに有り難みを感じることはなくなってしまったが,対象地に住む人の出自やどのように思いながら暮らしているかをアンケートによって明らかにすることは研究を進める上で非常に重要な前提知識となりそれは自分の足で得なくてはいけないことを再認識することができた.

以上に上げた事実は情報として知識として何となく自分の頭のなかにあったのだが,実際に現地で見て改めて事実として受け取ると価値観を変えうるほどのインパクトがあった.まさに百聞は一見に如かずであり,現地に赴くことの重要性を再確認できた.

私の卒論研究はミャンマーとは直接関係ないものだが,今回の調査に同行してミャンマーをはじめとする途上国が抱える水問題を身近に感じることができたと思う.


Saturday, September 22, 2018

野坂昭如、土木工学科との不思議なご縁


 今年1月、「高橋裕先生の卆寿をお祝いする会」が如水会館にて開催され、私も参加させていただきました。それに合わせて、高橋先生への思い出を冊子体として取りまとめることになりましたので、僭越ながら私も以下の文章を寄稿させていただきました。


-------------------------------------------------------------

東京大学・社会基盤学科 川崎昭如

 2015518日、高橋裕先生の日本国際賞受賞の記念講演会・祝賀会が一ツ橋の日本教育会館で開催されました。私はその日、高橋先生をお出迎えするため、等々力のご自宅をお伺いし、ご自宅の穴太積みの石垣と雨水貯留システムを高橋先生直々にご紹介いただいた後、タクシーに同乗し会場に向かいました。

穴太積みの石垣
 私はその時初めて高橋先生にお会いしましたため、タクシー車内で高橋先生から私の名前の由来を聞かれ、「私の父が作家・作詞家の野坂昭如(あきゆき)のファンだったので。」と回答したところ、「彼の父の野坂相如(すけゆき)は、東京帝国大学工学部土木工学科の大正12年の卒業生で、卒業後は東京の地下鉄建設計画や横浜の都市計画に従事した後、富山県の土木課長、新潟県の土木部長を務めた立派な土木技術者ですよ。その後、新潟県で技官として全国初の副知事になり、県知事選挙にも立候補しました(落選)。」と教えてくださりました。

 その数日後、闘病のため入院していた私の父に、高橋先生から教わったことを伝えたところ、「(えっ、本当?そうなんだ)」と言わんばかりの驚きの表情を見せ、その後、とても喜んだ顔をしていました。

 3週間後の610日、私の父は亡くなりました。野坂相如氏のことを父に伝えたとき、父は喉を摘出しており、かつ文字を書くのが難しい状態だったので、何を思ったかは分かりませんが、自分の息子が野坂昭如氏の父親が卒業した学科の教員になったという不思議な縁に、大きな喜びを感じていたことと思います。その時の満足げな父の表情は、今も私の脳裏に残っております。

 高橋先生の土木技術者に対する広大で深い知識と抜群の記憶力のお陰で、私自身が知らなかった自らの名前の由来である野坂昭如氏とその父の相如氏、そして東大土木工学科とのご縁を知ることができ、それを生前の父に伝えることができました。心から御礼を申し上げます。

 私の個人的な話に終始してしまい恐縮ですが、高橋裕先生におきましては、卒寿おめでとうございます。まだまだ高橋先生から教えていただきこと、ご指導いただきたいことが沢山あります。高橋先生の引き続きのご活躍とご健康を心からお祈り申し上げます。
高橋裕先生と(2015年5月撮影)。