Sunday, December 18, 2016

心の余裕~ミャンマーの経験を通じて~

どうもジェンキです。ジェンキ、元気1/2倍です。お腹がやばいです。

バゴーで調査しました(もう何回目だ…)。そこで感じたことをば。日本とかミャンマーとか言っていますが全て僕の主観であり偏見です。というか僕自身の経験からしかモノを言っていません。お許しください。因むと内容重いです。

【心の余裕】
ミャンマーと日本は、結構似ているところがあると思います。違う部分もあるからこそより強調されて感じるのかもしれません。両国とも、思いやり、気遣いといった文化が根っこにあると感じます。

以下、日本とは首都圏近辺というイメージでお話しします(僕の視野の狭さによるものです。これは許さなくていいです。)。日本は、先進国というだけあり、正直物的な面ではミャンマーに劣っている部分はあまりないのではないかと思います。サービスも非常に充実しており、ニーズがあるからそれに応えるという段階は通り過ぎ、むしろニーズを積極的に生み出していかなければならないステージにいると思います。だから根幹の「生きる」という部分では困ることはないし、そういった根本的ニーズに関しては多少お金があれば満たされてしまう。だから他人がいなければ本当の意味で生きていけないという状況にはありません。

一方、ミャンマーはインフラ、衛生、学問、その他諸々の点で日本と比べるとどうしても秀でているとは言えません。特に僕の研究対象地の貧困層のような暮らしをしたいと思う日本人は一人もいないと思います。考えやすいので、敢えてミャンマーでも極端な貧困層を例にとってお話しします。彼らは、日頃から助け合わないと根本的な意味で生きていけません。だからこそ、コミュニティに対して日本人の感覚では想像できないほどの愛情を持っている人が多くいます。1m以上の洪水被害を毎年受けていても、その場所、人が好きだから移住なんてしたくない、という人が多くいるのです(もちろん早く移住したいわふざけんな派も多くいます)。この移住したくない派の考えは、実はとても大切なことを伝えてくれている気がします。彼らは、洪水という負の側面(個人的にこの部分はだいぶマイナス)を受け入れ、その上で目の前の1日だけを生きていく生活にすっかり満足しています。就活だったら即落ちですね。何が言いたいのか。彼らには心の余裕があるのです。日本人からしたらあり得ないことを含めて、受け入れている。

上述のように日本(というか多分先進国)はかなり恵まれています。でも、だからこそ簡単なことでは満足できない。新しいサービスはどんどん生まれてくるけど、出来てしまうことが多い分、その出来てしまうことが当たり前になってしまい、出来ないこと、恵まれていないことに目がいってしまう。だからこそそれを埋めようと努力するので、より恵まれた状態になるのでその点はいいのですが、満足はできない。つまり、心の余裕がなくなります。因みにこれは全部僕の話なので、一般論っぽくするな若造と思う方は経験の浅い僕に全力でタイキックをしてください。全部受け止めますが治療費は50%ほど払っていただけると幸いです。

だからと言って「じゃあお前そのミャンマーで学んできた心の広さを持てんのかおい」と聞かれれば間違いなく無理です。もうすでに日本の生活水準の高さを身をもって知ってしまっているからです。ただ、毎回ミャンマーに来るたびに何かヒントを得ている気がします。ミャンマーの貧困層は、前述の通り現状に満足する心の広さをもっています。これは何故か。ひとえに無知で、他人の目を気にしないからだと思います。というのは、高水準の生活を知らない、故に気にしないということです。だから、日本でも「ありのままの現状を受け入れる」ことができれば、心にゆとりが持てるのだと思います。

恵まれた日本で、しかも現代のようにすぐに他の人が目に入ってくる中で「無知」という形で心に余裕を持つことは不可能だと思います。僕は常に何か上を目指していけばいつか満足できるだろうと思ってきた節がありますが、考えれば考えるほどそのようなことはなく、もしかしたら一生満足できずに終わるかもしれない気もしています。それが頑張る原動力になるのでそれはそれでいい気もしますが、死ぬまでには心の余裕を持てる段階に至りたいとミャンマーでの経験を通じて思ったりもします。同時に上昇志向を持つなら現状に満足したら終わりな気もしますが。

大学院を通じて自分の軸のようなものが更に固まった気がします。川崎先生を始め、日本、ミャンマーでお世話になっている全ての方々に御礼申し上げます。

以上、くそ長いですが23歳独身大学院生の日記でした。


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